BEFORE FOUNDING

  • 愛媛県弓削島で創業者となる
    岸太郎が誕生。
  • 「1万トンの船主になる」夢を抱き、北海道函館市の商店で
    奉公する。
  • 独立し「濱根商店」を立ち上げ、函館市で海産物の委託販売を始める。
  • 海運業開業。
  • 株式会社濱根商店に発展改組。
  • 向島船渠(株)創立。
  • 念願の1万トンの船主となる!
  • 濱根商店を神戸へ移す。
    (現在の神戸本社の原点)
  • 岸太郎、64年におよぶ生涯を
    閉じる。

瀬戸の海から函館へ、再び函館から瀬戸内へ。
「海上に雄飛を試むる」と、男は海に命をかけた。

1861年、初代 濱根岸太郎が生まれたのは、瀬戸内海に浮かぶ弓削島(愛媛県弓削村、現在の愛媛県上島町)。武市半平太らが土佐勤王党を結成したのもこの年で、まだ世の中は幕末の動乱真っ只中だった。この幕末に幼少期を過ごし、寺小屋で勉学に励み、「海上に雄飛を試むる」の言葉に感化された岸太郎は、北海道函館市で奉公をしながら商売のいろはを学んだ。
1899年、海産物委託販売の「濱根商店」を立ち上げ、独立。事業が波に乗ってきたところで、かねてからの夢である「1万トンの船主」を目指し、海運業をスタート。当時の創業の精神「俺が船 人の和を以って、良く、速く、安く」今も連綿と受け継がれている。
海運業の業績は順調に推移。折しも訪れた大戦景気に、空前の造船ブームが巻き起こり、どこの造船会社も新造船ばかりに突き進む。海運業として船舶の修繕を必要とする岸太郎は、やむなく修繕中心の造船所を自ら立ち上げ、ついに造船業の一歩を踏み出す。これが現在の尾道造船へとつながっていくのである。
(株)濱根商店の発起人たち
海運業をスタートさせてから11年目、岸太郎は念願の1万トン船主となる。そして、1925年、岸太郎は64年の生涯を閉じる。夢とロマンを追いかけた岸太郎の波乱の64年であった。

初代 濱根 岸太郎

THE BIRTH

  • 関東大震災、世界恐慌と20年代は経済的大打撃。
    造船業も衰退へ。
  • 第2代社長として濱根岸太郎(旧名:忠蔵)、濱根商店・向島船渠の取締役社長に就任。
    先代 岸太郎の名を拝受。
  • 濱根汽船設立。
  • 向島船渠西工場を開設。「全国屈指の修繕工場」として急成長。
  • 戦時体制のもと、向島船渠は日立造船に吸収合併。
    一方で木造船の造船所として尾道造船誕生。
  • 終戦。最大手の発注主であった海軍解体により、造船業界はどん底に陥る。
  • 朝鮮戦争。特需により世界的にタンカー建造ブームが起こる。造船業界も活況を取り戻す。
  • 第2代取締役社長 濱根岸太郎(旧名:忠蔵)退任。

戦時体制という、大戦末期の混迷期をくぐり、
技術と信頼だけを財産にONOZOが産声をあげる。

1920年、大戦後の恐慌。1923年、関東大震災。1929年、世界恐慌と、経済的大打撃に見舞われた1920年代。インフレの影響で、造船業界も衰退する。そんな状況下、第2代社長 濱根岸太郎(旧名:忠蔵)は、創業者岸太郎逝去の翌月(1924年6月)に30歳で社長に就任し、その年「岸太郎」の名を拝受した。1937年、日中戦争。1939年第二次世界大戦。1941年、太平洋戦争と戦争に翻弄された時代だが、大戦特需により造船業界は活況を取り戻す。海上輸送力の増強を図るため、戦時標準船や軍艦が大量に建造され
進水式(昭和29年)た。1943年、戦時の計画造船体制のもと、向島船渠は日立造船に吸収合併されるが、その技術と意欲を国に見込まれ、木造船専業の造船所が開設される。尾道造船の誕生である。
1945年終戦。造船業界もどん底状態に陥るが、その5年後、朝鮮戦争勃発。未曾有の特需により、世界的建造ブームが起こる。日本の造船業界も活況を取り戻し、造船王国と呼ばれるようになったのもこの時代だ。

第2代取締役社長 濱根 岸太郎(旧名:忠蔵)
向島船渠の人々

THE GROWTH

  • 濱根康夫、第3代取締役社長に就任。”船主のための造船所”をモットーに、「造船一本」の方針を打ち出す。
  • 第2次輸出船ブームの到来。
  • 第3次輸出船ブーム到来。「造船王国」の地位を不動のものにする。
  • 総合事務所落成。寮や食堂、各ハウスなども完備。給与計算や資材管理も電算化し、近代的な生産管理体制も整えた。
  • 第4次中東戦争勃発、オイルショック発生。未曾有の不況に。
  • 多角経営と合理化、企業体質の強化を経て、ついに不況脱却の第一歩として拡張した5号ドックが稼働。修繕部門での飛躍に活路を開く。

スエズ運河再開第1次、2次、3次輸出船ブーム、
世界情勢に翻弄されながら独自の道を探し求める。

1957年、スエズ運河再開により、航海日数短縮で船舶の回転数が高まり、船腹過剰状況に陥る。日本経済が高度成長へと向かう一方で、海運・造船業界は不況に。1959年、先代岸太郎の後を継いで、濱根康夫が新社長に就任する。造船不況下で各社が陸上機械部門に進出する中、ONOZOは”船主のための造船所”をモットーに「造船一本」という方針を打ち出す。やがて、世界的な石油需要の増大や穀物輸送量の急増によって、第2次輸出船ブームが到来するが、業界的には長引く不況の影響で低価格船への切り替えが進んでおり、ONOZOも苦戦した。
1964年の東京オリンピック、スエズ運河の閉鎖、世界的石油需要の増大な
1966竣工 第1船穀工場ど、内外の情勢変化で、第3次輸出船ブームが訪れ、超大型船時代が幕開け。ONOZOは大型船建造に向け、日立造船と技術指導協定を結び、設備の増強を進める。多様な新船型を標準化し、多彩な船種を扱えること、連続建造体制による同型船の大量受注が可能だったことも特色となり、新社長のもと順調に業績を伸ばしていった。

第3代取締役社長 濱根 康夫
1964進水式

THE OVERCOME

  • 濱根義和、第4代取締役社長に就任。陸機部門新設。新造船、修繕船に次ぐ経営の3本柱に成長していく。
  • 造船主要33社に対し、操業短縮勧告が出されたのを受け、操業短縮スタート。
  • 第2次造船不況による修繕船受注競争時代へ突入。
  • 企業存亡の岐路。”徹底したコストダウンの実践”をモットーにする(社長年頭挨拶)
  • 造船8グループ体制。中手13社連合体制のスタート。
  • 不況克服。10万トンタンカー
    連続建造スタート。佐伯重工業へ加工委託を行う。
  • イメージアップ委員会発足。新造船見学会や地域交流の積極的推進など、地域との共同体社会づくりに注力。
  • 一時1ドル79円台。超円高による業績悪化で、経営危機突破対策を実施する。
  • 向島工場稼動。ブロック完成品をジャストインタイムで対岸の尾道造船所までバージ輸送し、直に船台搭載が可能となる。
  • 中部隆、第5代取締役社長に就任。濱根義和、会長就任。
  • 初代 濱根岸太郎氏レリーフ
    設置。
  • 濱根義和、会長退任。
    取締役相談役に就任。
  • 佐伯工場を開設。
  • 総合事務所竣工。

それでもONOZOは未来に向かって突き進む。
俺が船 人の和を以って、良く、速く、安く!

受注産業の宿命とはいえ、造船業界は内外の経済情勢の影響をストレートに受ける。1979年の第2次オイルショック。その後の韓国造船業界の台頭などを背景に、1983年操業短縮スタート。1984年には修繕船部門も受注競争時代に突入し、近隣の4造船会社(4社会)をグループ化することで、横の連携を深め、問題解決やコストダウン対策を行うなどの手を打つ。それでも、1986年には円高の影響を受け、「輸出船王国」の座を韓国に明け渡し、1987年には日本の造船業界全体が存亡の危機に瀕する状態になる。
「大手造船会社は新造船を徐々に縮小していますが、我が社は造船以外に生きる道はありません」
新造船見学会
で始まる1986年の社長年頭の挨拶は、当時のONOZOが置かれていた状況をよく物語る。このモットー通りに、ONOZOは息を吹き返す。コストダウンと生産システムのコンピュータ化、大型化にともなう設備の拡充などで、幾度となく訪れる危機的な状況を乗り越える。
苦難に面すれば面するほど、不死鳥のごとく甦り、高く舞い上がる。創業前史から100年を超えるONOZOの歴史である。

佐伯重工業

第4代取締役社長 濱根 義和

THE QUALITY

  • SNo.321 EVER GREET 【1984(昭和59年)】
  • 貨物船を船員訓練用のトレーニングコンテナ船「EVER TRUST」に改造【1984(昭和59年)竣工】
  • SNo.377 EVER RACER、SNo.378 EVER REACH 1ホールド船体延長工事【1994(平成6)年】
  • SNo.378 EVER REACH 【1994(平成6)年】

コンテナ船建造への進出

世界有数のコンテナ船運行会社であるエバーグリーン・マリン・コーポレーション社
(=EVERGREEN社)所有の貨物船修繕工事をきっかけに、ONOZO初のフルコンテナ船や大型改造工事の受注に成功。これらの工事に対する品質最優先の企業姿勢や技術力によって船主から高い評価を獲得。コンテナ船累計23隻の連続建造実績へと結実していく。

「尾道造船の船だとすぐにわかるようにしてほしい」というお客さまの要望により、デザインしたフォアマストとレーダーマスト。他社の建造船にも尾道造船のデザインが残っている。

「荷役時間を最短とする」というデザインコンセプトのもとに開発された「省エネ・省力型 RORO 船」で、世界で初めてのオートラッシング (自動車両固縛) 装置を装備し、乗組員によるラッシング作業の省力化とスピードアップを図っている。

世界がONOZOを認めた
出会いの日、めざすレベルは、
またワンランクあがる。

EVERGREEN社は、台湾を本拠とする海運会社で、同社を核に航空会社やホテル業も展開する一大企業グループを形成する。そのEVERGREEN社が、G型と呼ばれるシリーズ船を3造船所に振り分けて発注していたのが、出会いのはじまり。ONOZOも1984年から建造し、その仕上がりは他社建造船よりも船体振動が少ない点や細かい作業を丁寧に行った点などが評価され、「尾道造船は品質の良い船をつくる」と認められる。
一方では、大手造船所からの図面供与を勧められるが、これを断り自力で設計。逆に他社へ図面を提供するなど、技術と品質のONOZOの名を広げる。
「俺が船 人の和を以って、良く、速く、安く」はいまだ健在なり、である。